プロテニス選手で、現在は指導者でもある、神和住純。
法政大学スポーツ健康科学部の教授でもあります。
そんな神和住純ですが、息子がいるというのは本当でしょうか?
いるとしたら、息子は何をしているのでしょう。
また、神和住純の出身地や身長についても気になります。
そして、若いころどれだけの活躍をしたのか知りたいですね。
そこで今回は、神和住純について見ていきたいと思います。
神和住純には息子がいるの?
世界で活躍した神和住純。
結婚したのがいつなのか、嫁は誰なのか、調べてみましたがわかりませんでした。
僕は結婚が早かったんですけれども、あとは飯を食えるだけの賞金を稼げればいいと。
わりと早く結婚していたことを神和住純自身が語っています。
では、子供に関してはどうでしょうか。
子供が何人いるのか、息子はいるのか、調べてみました。
詳細は全く分からないのですが、息子がいるらしいという記述は見つけました。
しかし、息子が何歳なのか、何をしているのか、結婚しているのか、など、息子に関する情報は一切見つけることができませんでした。
もし、父親と同じくテニスの道に進んでいれば話題になるでしょうし、神和住純からも話が出てもよさそうですが、そういったこともないので、息子はテニスをやっていない可能性が高いですね。
神和住純には息子がいるようですが、息子に関する情報は見つかりませんでした。
神和住純の出身地はどこ?
神和住純の出身地について調べてみました。
石川県鳳珠郡能登町(旧能都町)出身。
石川県出身でした。
神和住純の身長は何センチ?
世界で活躍した神和住純ですが、身長は何センチあるのでしょうか?
プロフィールにはこう書かれていました。
173cm/78kg
世界で戦った選手としては、かなり小柄なのではないでしょうか。
身長があった方が有利とされる世界でしょうし、小柄な分、技術や努力でカバーしたのでしょうね。
173センチで世界と戦ったと思うと、頭が下がります。
神和住純の若い頃の活躍について
現在、日本のテニスプレーヤーといえば錦織圭ですが、神和住純は過去に素晴らしい成績を残したプレーヤーです。
日本人戦後初のトーナメントプロ選手。
1980年から国内7年連続賞金王。
1997年から2004年までデビスカップ代表監督。
1973年全米オープンで3回戦に進出。
これは錦織圭が2008年に進出するまで日本人男子最後の全米3回戦進出だった。
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錦織圭が現れるまで、全米オープンの記録を持っていたのが神和住純だったんですね。
それだけで凄い選手だったのがわかります。
そもそも神和住純がテニスを始めたきっかけは何だったのでしょうか?
全日本チャンピオンだった両親の影響から、中学1年でソフトテニス(軟式庭球)を始める。
なんと、両親もチャンピオンだったんですね!
両親に影響され始めたテニスですが、めきめき腕を上げていきます。
学生時代から、ずば抜けた才能があったようですよ。
法政大学第二高校進学後硬式に転向し、1965年全国高等学校総合体育大会テニス競技大会完全優勝と全日本ジュニアテニス選手権単複優勝を飾る。
世界ジュニアテニス選手権にも出場し、サンシャインカップ団体3位にも貢献した。
まさに、賞を総なめにしています。
大学に進んでからもさらに凄いです。
法政大学ではインカレシングルス3連勝を果たし、1967年東京ユニバーシアードシングルス銀メダル、1970年トリノユニバーシアードではダブルス金メダルを獲得する。
1965年にはデビスカップ初選出。1968年の全豪選手権でグランドスラム初出場。
インカレ3連勝。素晴らしいですね。
グランドスラムにも出場しています。
その後も輝かしい成績を残します。
1973年、日本人では戦後初のトーナメントプロ第1号となる。
この年WCT年間最多34大会出場、全米オープンのシングルスで3回戦進出。
1974年、当時世界トップクラスのスタン・スミスを全仏オープンと全米プロテニス選手権で2度破る。
1980年に日本もプロオープン化承認されると、国内の7大会のシングルスに優勝し、7年連続賞金王となる。
1983年の「グンゼワールドテニス」(1974年(昭和49年)から1993年(平成5年)まで日本で行われたエキシビション大会)では、ロイ・エマーソン、ロッド・レーバー、ジョン・ニューカムといった往年の世界のトップ選手を次々に破って優勝した。
戦後初のプロ1号が神和住純だったんですね。
そして世界のトップクラスの選手をも破っていきます。
7年連続賞金王というのも素晴らしいです。
神和住純を直接知らない世代でも、これだけ素晴らしかったということがわかっていただけたでしょうか。
1986年の全日本選手権を最後に現役引退。
ATP世界ランキング最高78位。
デ杯37戦出場は日本代表選手史上最多。
引退後は、スポーツキャスターやタレント活動、解説者などを経て、1995年に鹿屋体育大学教授、1999年には母校法政大学教授となる。
1997年よりデ杯日本代表監督に就任。
日本テニス協会理事も務める。
また、テニス教室や講演会活動も行っている。
1986年に引退してからも、キャスターや解説の仕事をし、また教授の仕事もしています。
高進に指導も行っているんですね。
今でも偉大なテニスプレーヤーであることがわかっていただけたでしょうか。