今回は、元プロレスラー・星野勘太郎さんについて紹介します。
星野勘太郎について
星野勘太郎さんは、1943年兵庫県神戸市生まれで在日韓国人・朝鮮人である元プロレスラー・プロモーターです。
本名はヨ・コンブ(呂建夫)さんといい通名は星野達夫さんです。
身長170cmと小柄ながらも、1961年に日本プロレスへ入門し1974年からは新日本プロレスに移籍してご活躍されていました。
鮮やかなスカイブルーのパンツとパンチパーマで有名で、ヘッドロックパンチやフライングヘッドバッド、ダイビング・ニードロップなどの強烈な技で強いレスラーにも果敢に突進していくことから「突貫小僧」という異名もお持ちです。
また日本だけでなく、1967年にはアメリカで山本小鉄さんと「ヤマハ・ブラザーズ」というタッグチームを組み、ご活躍されました。
1995年に現役引退した後は、プロモーターとして新日本プロレスの発展にご尽力され、多大な貢献をされています。
決め台詞である「ビッシビシ行くからな!」が流行り、プロレス流行語大賞をとるほどの有名人でした。
今回はそんな星野勘太郎さんについてまとめていきたいと思います。
星野勘太郎には息子がいるの?
星野勘太郎さんの息子さんの情報については検索してみても全然出てきませんでした。
しかし、彼の本名は「呂建夫(ヨ・コンブ)」さんで、在日韓国朝鮮人の方なので、星野源さんの父親とは全くの別人です。
ただ、シンガーソングライターや俳優としてご活躍されている星野源さんの父親が星野勘太郎さんなのではないかとネットで噂になったことがあったようです。
星野という苗字はそこまでいるわけでもないですが、それほど珍しい苗字というわけでもないので、苗字が一緒という事実だけで親子関係なのではと考えてしまうのも、どうなんでしょうか・・。
またご結婚されているのかも検索してみましたが、特に情報は出てこなかったので真相はわからないままです。
星野勘太郎の喧嘩の強さが伝説レベルだった?
星野勘太郎はプロレスラーになる前、三度の飯より喧嘩が好きだったそうです。
喧嘩がしたくてプロレスラーになったそうです。
スポンサーリンク昔は、喧嘩の強いレスラーといえば、上田馬之助、桜田一男(だったかな)、そして星野勘太郎だったそうです。
星野勘太郎さんは喧嘩したいが為にプロレスラーになったとのことです。
私は喧嘩したことがないので喧嘩の魅力を理解することはできないのですが、好きな喧嘩を仕事にしてしまえるだけの強さをお持ちだったのはすごいことです。
もともと才能があったということなのでしょうね。
小学生から「スカッとするから」1日3回の喧嘩を怠らず、強そうなお兄さんに因縁をつけ、裏に連れて行くなど、純粋に喧嘩に打ち込む。
野球部を相手にした1対10決戦、学校別対抗戦などを経て、高校時代にはアマチュアボクサーとして活躍し、1961年に日本プロレス入団。
今では数少ない力道山門下生のひとり。
1974年より新日本プロレスに参戦し、山本小鉄氏とのタッグ、ヤマハ・プラサーズとして活躍。
神戸商学高校時代はボクシング部に所属していましたが、上京した際に高山一夫氏に「お前は手が短いからプロレスラー向き」だとアドバイスされ、力道山の門を叩いたのだとか。
実際に喧嘩っ早いと言われるエピソードとして、日本ミドル級王者の金田森男氏と口論になり、ぶっ飛ばしたことがあったり、レスラー仲間である大熊元司氏を殴り鼻血まみれにしたことなどがあります。
星野勘太郎の死因は何だったの?
元日本プロレス、新日本プロレスのプロレスラーであった星野さんが、11月25日、肺炎のため、入院先の病院で死去した。
享年67歳の若さであった。
わずか3カ月前の8月28日には、星野さんのタッグパートナーで、新日本の鬼コーチとして有名だった山本小鉄さん(享年68歳)が死去。
その際、闘病中であった星野さんは、小鉄さんの死を聞いて号泣したという。
まさに、小鉄さんの後を追うかのような星野さんの死に、胸を痛めた関係者は多い。
星野勘太郎さんは、67歳という若さで肺炎が原因でお亡くなりになりました。
しかしながら、タッグパートナーであった山本小鉄さんの死も少なからず影響しているのではないかと思います。
精神的にダメージを負い、生きることへの執着心というものが薄れてしまったと考えます。
また、プロレスラーは短命だとも言われています。
男性の平均寿命は約79歳と言われていますから、星野勘太郎さんはそれよりも13年早く亡くなってしまったということですね。
若い頃にたくさんの衝撃や強打を身体や脳に受け、多大なダメージが積み重なっているのでしょう。
私たちに興奮や感動を与えてくれるプロレスラーのみなさん、どうか少しでも長くお元気でいて欲しいです。