今回は漫才師の島田洋七(しまだ ようしち)さんについてみていきましょう。
島田洋七には息子がいるの?
80年台の漫才ブームと共に、お笑いの世界を目指した島田洋七さん。
「花王名人劇場」「激突!漫才新幹線」「お笑いスター誕生!!」「THE MANZAI」などで圧倒的実力を見せつけ、漫才ブームを引き起こした立役者でもあります。
その後はB&Bを結成し、ブレイクと共に黄金時代を作り上げ、一気に知名度を高めました。
そんな島田洋七さんは結婚していて奥さんがいらっしゃいます。
奥さんとの間にお子さんがいるかどうかは不明でした。
一部情報によると息子さんがいるとも言われていますが、年齢的にはいてもおかしくないですよね。
島田洋七の結婚した嫁は誰?
島田洋七さんの奥さんは、「律子」さん。
島田洋七さんの著書「がばいばあちゃん」が大ヒットし、この著籍は400万部も売れた大ベストセラーとなっています。
そもそも、「がばい」とはどう言う意味かと言いますと「非常に」と言う佐賀独特の方言です。
つまり略すと・・・「非常にばあちゃん」と言う意味でしょうか?
島田洋七さんは、律子さんが心の支えだと常日ごろから語っていおり、下積み時代もずっとそばにいてくれたと感謝していました。
島田洋七は高校卒業後、広島の広陵高校に野球推薦で入り、そのまま広島工業大学に進学しますが、中退して佐賀に戻ります。
そのときに出会ったのがデパートに勤務していた律子さん。
島田洋七さんが19歳の頃でした。
20歳のときに駆け落ちし、歌手を目指して上京するものの、すぐに貯金が底をつき、高校の先輩に誘われて大阪に移り、東住吉区の4畳半で2人暮らしを始めました。
そして、うめだ花月で中田カウス・ボタン師匠などの漫才を見たことがきっかけで、歌手を諦め、漫才を志すようになりました。
漫才だけでは食べて行けず、野菜の配送や深夜の配管工のアルバイトなどで食いつないだといいます。
冷蔵庫にマヨネーズとケチャップしか無いので、二人でそれを啜ったりしていたそうです。
八百屋からもらってきた野菜の芯や、パン屋でもらった食パンの耳、客の置いていった弁当などで食いつなぐなど、赤貧の生活を8年間続けたといいます。
しかし、漫才ブームの最盛期には、毎月数千万円が入った段ボールを律子さんに渡すほど、生活は激変しました。
1980年には年収が8億円に上ったそうですが、実家や自宅を建て替えたり、律子さんの実家のために漁船や機械を買ったりなど、かなり派手に遣い込んでしまったそうです。
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島田洋七さんは芸人として売れなくなってしまってから、政治活動や副業としてお店を構えて商売をしていました。
しかし、うまくいかずに短期間で閉店することになってしまいます。
多額の借金だけが残り、自殺を考えるほど精神的に追い詰められましたが、律子さんは島田洋七さんを支え続けました。
島田洋七の自宅住所は佐賀?
現在の島田洋七さんは、佐賀県で律子さんと共に田舎暮らしを楽しんでいます。
「佐賀のがばいばあちゃん」のヒットで、自宅は有名スポットになっているのだとか。
地元の人はもちろんのこと、県外からも観光目当てに人が来るそうです。
島田洋七はビートたけしと仲良しなの?エピソードご紹介!
島田洋七さんは、1975年に3人目の相方・島田洋八さんと組んだ“三代目”B&Bでブレイクを果たしました。
漫才ブームを牽引していた当時、19本ものレギュラー番組を持っていました。
1980年、『THE MANZAI』の初回が放送された。
出演する漫才師をはじめ、会場のセット、観客、演出にいたるまで、流行を意識した番組作りが当時の若者のハートをキャッチ。
ほどなく“MANZAIブーム”となり、ツービート、B&Bらが一気にスターダムへと躍り出た。
翌年には、伝説的番組『オレたちひょうきん族』スタート。
裏番組『全員集合』に対抗し、ビートたけし、明石家さんまがぶつかりあう“アドリブによる笑い”を仕掛け、壮絶な戦いを繰り広げていった。
MANZAIブームの落とし子の一つとして生まれたのが「笑ってる場合ですよ!」で、島田洋七さんのテンポの速さがうけました。
親交があるビートたけしさんも「洋七のしゃべりは誰もかなわない」と絶賛しています。
島田洋七さんは故・横山やすしさんからビートたけしさんを紹介され、仲良くなりました。
「東京にオモロイ芸人がおるから、(島田)洋七、会わせたるわ」って。
「たけしっちゅうヤツや」って。若手の頃のたけしさんが、「はじめまして」って。
「ツービートで漫才やってます」「B&Bです」って。
その後漫才ブームで売れて、大金が入った2人は2,000万円を抱えて銀座の高級クラブに遊びにいったそうです。
たけしの“フライデー事件”の裁判中に、たけしがマスコミの目を避けるために沖縄の石垣島に逃避行した際、洋七が頻繁に訪ねて、砂浜で延々と語り合い、潮が満ちて、膝が水に浸かるのに気づかないほどだったという。
それから30年以上がたっている現在も、2人の絆は固く結ばれているようです。