今回は俳優の滝田栄(たきた さかえ)さんについてみていきましょう。
滝田栄には息子がいるの?
滝田栄さんといえば、テレビ番組「料理バンザイ!」の司会、ミュージカル「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャン役で有名な俳優さんですね。
1983年には大河ドラマ「徳川家康」で主演の徳川家康役を務めるなど、その活躍は多岐にわたります。
そんな滝田栄さんのプライベートは謎が多いですが、結婚していてお子さんがいるのは間違いなさそうです。
NHKの昼番組「ふるさと一番」生中継の為、俳優の滝田栄さんと奥さん(マネージャー)松山に来られました。
奥さんは松山が初めて、夫婦揃って、松山の魚は美味しい、物価が安い(何をもってそう感じたかは?)とすっかり気に入って再訪したいと言っておりました。
20年近い交友がある我々夫婦にとっては、久しぶりのご対面、「友あり遠方より来る」と楽しい一日になりました。
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奥さんは滝田栄さんのマネージャーを務めているそうですから、一般人でしょうね。
息子さんがいるとの情報もありますが、詳細はわかりませんでした。
滝田栄の家族構成について
滝田栄さんの実家は代々、関東一帯の米を利根川から船で江戸城に納める「米庄」だったそうです。
また、第24代横綱鳳は祖父の弟にあたるそうで、身内に横綱がいるってすごいですね!
お兄さんの詔生(つぐお)さんは、千葉県・成田高等学校陸上部の元監督でした。
オリンピックで金メダルを取ったのが室伏広治さん。
そして、マラソン選手として有名な増田明美さんなど。
こういった日本を代表する選手を育て上げたのがお兄さんなのです。
増田さんは、監督の影響もあって滝田栄さんの大ファンとのこと。
お世話になった監督の弟さんですし、何よりイケメン俳優ですからね。
お兄さんである元監督も、イケメンを想像しますよね。
その兄をガンで亡くしてからは肉類は一切食べないという。
ただし、植物性のものしか食べないわけではなく、「生中継 ふるさと一番!」に出演した際はシシャモやハモ等を食べていた。
陸上の名監督でしたが、55歳の時にガンで亡くなってしまったそうです。
滝田栄に死去の噂が?
最近メディアであまり見かけなくなった滝田栄さん。
長年その姿を見ていない方からは、死亡説が浮上してしまうくらいでした。
しかし、滝田栄さんは現在も元気に活動しています。
実は1994年から仏像彫刻を始められ、近年は俳優業からも遠ざかっていたようで、仏像彫刻に専念しています。
滝田栄は俳優から仏像彫刻家へ?
仏像彫刻を始めたきっかけとしては、2年前に亡くなったお母さんを供養するために観音菩薩を彫ったことでした。
そしてその後も家族や親しい人たちが亡くなるたびに、仏像を彫り続けています。
実のお父さんが亡くなられた際は、お母さんの時よりも少し大きい観音菩薩を彫り、お兄さんが亡くなった時には不動明王彫っています。
また、東日本大震災の被災地である気仙沼には、地蔵菩薩を彫って贈っています。
現在も八ヶ岳にアトリエを構えて仏像を彫り続けています。
20年司会を務められたテレビ番組「料理バンザイ!」が終了するなど、愛着のあった仕事を一度に失ったことから、お釈迦様について学ぶ時が来たと思われ、2002年、インドに修行に行かれた滝田さん。
帰国されると、成田の空港に降り立ったら、明らかに(日本は)「欲望の国」だと感じました。
みんな良いものを着ておしゃれしているのに、なんかイライラ、目がギラギラしている。
インドの森で静かに感謝しながら生きている人たちと、全く人生のテーマが違う。
これが仏教で言う欲界だと思い、これを突破する方法が仏教だと思いました。
インドでは、瞑想とは、供養とは、真言とは何かを、一つ一つ体験させてもらいました。
そして供養の重要性をいっそう感じるようになりました。
このように語っていたそうです。
これからは仏教彫刻という新たなステージで頑張っていってほしいですね。
滝田栄の経歴は文学座から劇団四季へ
滝田栄さんは高校時代に山岳部で山登りに熱中していて、高校卒業後はいつかフランスの山へ登りたいという気持ちが芽生えたそうです。
大学は、仏文科(夜間部)に入学し、昼間はアルバイトをされていたそうです。
しかし、1970年、大学1年生の時、「70年安保」でほとんど授業がなく、暇つぶしに銀座をブラブラし、たまたま入った映画館「テアトル銀座」で、「アラビアのロレンス」という映画を見ました。
俳優たちが格好良くて感動され、そのことを大学の友だちに話したところ、その友達から、「君は俳優になるべきだ」「君はタイプからいって文学座だ」と言われます。
試験の傾向や対策を教えてくれ、滝田さんのために作文まで書いてもらったそうで、滝田さんはなんだかできそうな気がしてきたため、「文学座」養成所の試験を受けに行ったところ、見事合格されたのだとか。
その際は初めての経験なのでまったくお芝居ができず、苦悩したこともあったそうです。
「文学座」の養成所で芝居の基礎を学んだあと退所し、1973年23歳のときに「劇団四季」に入団しました。
「王様の耳はロバの耳」の王様役や、「ジーザス・クライスト・スーパースター」のユダ役などで有名になられ、1981年、31歳の時、「劇団四季」も退団されています。
このように演技を学び続けて現在に至るのですね。